斉藤緑雨のアフォリズム集「半文銭」の中に、
刀を鳥に加へて鳥の血に悲しめど、魚の血に悲しまず。
聲ある者は幸福也、叫ぶ者は幸福也、泣得るものは幸福也、
今の所謂詩人は幸福也。
という言葉があります。
この中の一節が、最近気がかりな一大事です。
鳥は、痛かったり嫌だったら鳴いて表す事が出来るけれど、
魚は暴れるばかりで一言も物が言えません。
「魚には痛覚がない」といった俗説が漠然とあって、私も深く考えたことがありませんでした。
しかし「魚にも痛覚はある」とした見解が広まっているようで、生物学者ヴィクトリア・ブレイスウェイトの著書「魚は痛みを感じるか」でも様々な検証が成されている様です。
生憎この本を読んではいないのですが、他のブログやレビューを見る限り「魚に痛覚はあるけど、感情的にどう受け止めているかは魚じゃないから分からない、そもそも感情があるか分かんない」
という事のようです。痛みは認知出来るけれど苦しんでいるかまでは分からないと。
これは釣人にとっては実に難しい問題です。
よくよく考えてみれば、釣り上げた途端あれだけ暴れているのですから、何も感じていないわけありません。
彼らが声をもって
「助けてくれ!死ぬ!海に戻してくれ!頼む!うわあああ」
と哀願してくるわけではありませんが、身を捩らせながら全身でそれを表現しているようなものです。
しかし悲しい事にその表情、特に目はまん丸いだけで何の変化もありませんし、稀に鳴く魚もいますが、それとて鰓の具合でキューキュー言ってるだけだと思われてしまいます。
何と言いますか、私の場合はあえて深く考えないようにしていた節があります。
これは推論に過ぎませんが、釣人の多くは私のように魚には痛覚が「無い」と「思う事にしている」のではないでしょうか。
だって、突き詰めて考えるともう魚を釣るなんて出来ません…。
ひと昔前ならともかく、今はネットを通じて世界のあらゆる情報を集める事が出来る時代。その気になれば真偽はともかく、溢れる程の情報と知識が得られます。
現に私も「魚 痛覚」「魚 痛み」などと検索しただけですぐにこの事実を知るに至ったわけです。
(厳密には魚のみぞ知る事ですから、事実と言うのも語弊がありますが)
これも他の方のブログで知った事ですが、どうやら動物愛護法の中に「魚」も含まれているそうです。
みだりに殺し傷つけ、苦しめてはいけない。人と動物の共生に配慮しながら、適切に扱いなさいとあるわけですが、
そうなるといよいよ「釣り」への欲求が根底から揺るがされるのを感じます。
魚は痛がってないから平気、と思いたいエゴが自分をあえて無知にさせていたのです。
そんなに苦悩するなら釣りやめなはれ、と思われるでしょうが…。
これがご都合主義というものですね。
急に話が変わりますが、釣りって色々考えさせられるという事に今更気付きました。
一緒に釣行する人との関係性や気遣い、釣り場でのマナー。場所の取り方。
皆、一人で釣りをしていると思っても実はそうではなく、かなり
周囲に気を使ってその釣り場に溶け込んでいるのだということに、
ようやく気付きました。
一匹の魚を釣る為に費やされるコスト。場所取りなどのストレス。
実は自分の無知が釣り場の和を乱していたと気付いた時の羞恥。
そういう壁に打ち当たりながら、とりあえず今年は納竿かなぁ、と
思っています。
次のシーズン、また新たな気持ちで釣りが出来るといいなぁ。
コメント
@ichidaijikyoko ブログ、読みました。痛み…魚にもあるのでは…?と、思いますが…。生きている魚に包丁を入れると暴れるのは痛いからじゃないかな?と思ったり。いろいろ考えると草花や木はどうなのかな…とか、きりがなくなるんですけど…。何だかまとまらなくてごめんなさい。